UJの活動に欠かせないのが現地の協力員、ナイラさんとユーセフ君。アザド・カシミールに暮らすこの2人が、12月25日、ユーセフ君の出身地、スルリ・スッチャ村へ同行してくれた(2人については代表の第3次報告、12月24日、25日をご覧いただきたい)。
〔スルリ・スッチャ村〕
スルリ・スッチャ村はアザド・カシミールの首都、ムザファラバード市街から山間部を走ること数時間、山奥に突如として現れた寒村であった。ボランティアとして参加してくれたフンザ出身のシェール君は、パキスタン政府は意図的に国境近くにこの寒村を存続させているのだと言う。危急時にはまず、この村がターゲットになり、市街地への防波堤の役割を果たすのだ、と。
〔ユーセフ君〕
そんな村にユーセフ君のお母さんはいらした。数ヶ月ぶりに会う息子、ユーセフ君に駆け寄るでもなく、笑顔で迎えるでもない。厳格な堅い表情のまま、無言で私たちを住まいに案内してくださった。古く薄汚れたテントの中、むき出しの地面にベッドがひとつ。女性らしい小物も、目を楽しませてくれる美しい色彩もまったく見当たらない。これが、地震から1年もたったお母さんの住まい。すべてを地滑りでなくしたという。
数時間後、活動を終えて戻ったテントには椅子が数脚並べられ、お母さんと仲間の女性たちが作ってくださった心づくしのカレーが運ばれた。ユーセフ君がムザファラバードから大事に運んできた赤いビニール袋に入った肉、それはお母さんへのおみやげだと思い込んでいたのだが、実は、わたしたちへのご馳走だったのだ。パキスタンには客をもてなす「客人接待」という習慣があるそうだが、このような状況にあってなお、私たちに心を砕いてくださるお母さんの威厳はどこから来るのだろう?遠路はるばるやって来た息子の知人たち、NGO関係者に礼を失しないよう、息子のプライドが保てるよう、お母さんは必死だったのだろうか。どんな状況にあっても、他者を慮る心の余裕と慮れるという自身への誇り。お母さんになにか崇高なものを感じながら、自身に誇りを持てる限り、お母さんは必ずや立ち直る方だとなぜか確信できた。しかし、私たちに対するお母さんの表情は強張ったままで一度も緩むことがなく、ことばを交わすきっかけをつかむことさえできなかった。
そんなお母さんが「数ヶ月ぶりに帰ってきたのに、たった数時間でもう行ってしまうの?」と寂しそうだったと、ユーセフ君は帰途の車中で涙ぐむ。父と兄に守られ、大学院の学生として夢に向かっていたであろうユーセフ君。その夢を共有していらしたに違いないお母さん。父と兄を一瞬にして奪われ、母や弟妹への責任を一身に背負うことになった息子をお母さんはさぞや不憫に思われていることだろう。しかも、息子を頼るしかない自身の非力をどんなにか詫びていらっしゃることだろう。この過酷な運命に、ユーセフ君は自身に言い聞かせるように静かに言い切った。「アラーに与えられた試練に、ぼくは負けない」。
〔ナイラさん〕
スルリ・スッチャ村での活動の後は、奨学金の給付は公平に行われたか、やり方に問題はなかったかなど疑問や反省が頭を駆け巡る。フト思いをナイラさんに漏らした。ナイラさんは「もし、反省があるのなら、もし、したことに問題を感じるのなら、いつでも修正しに戻って来ればいい」とこともなげに言う。ミュールをはいたナイラさんは、スニーカーの私と同じ速度で危なげなくこの山間の村を歩き回る。小柄で華奢なナイラさんのこの逞しさは何処から来るのだろう。
実は、ナイラさんに救いを求めたのはこの日が初めてではなかった。前日、24日に訪れた大学グラウンド裏のテント村で、アンケート用紙を手に聞き取り調査を行ったときのこと。アンケートの設問の中には現場にそぐわないと感じられるものがいくつかあり、回答者に申し訳なく、非常に心苦しい思いをした。この設問はこれでいいのだろうか、回答者に失礼ではないだろうかなどの私の不安と疑問にナイラさんの答えは簡単かつ明瞭だった。「もし憤慨するような質問なら、この人たちは絶対に応えない」。
自身も被災者であるナイラさんは、地震後、アメリカ系NGOでフィールドワーカーとして働いてきたという。現場とNGOの関係をしっかり見つめてきたのだろう。若いナイラさんから大きなことを教わった。
その夜、ナイラさん一家が身を寄せているお祖母さん宅にチャイ(お茶)に招かれた。ナイラさんのお祖母さんは英語が話せる方だが、この年齢では珍しいのではないだろうか。一般にカシミールの女性は高い教育を受ける機会に恵まれず、経済的に男性に依存していると聞くが、ナイラさんには大学の医学部に通う従姉妹もいる。ナイラさん自身は結婚を視野に入れながらも、自立した女性として仕事への夢を語る(現在は再びフィールドワーカーとしてノルウエイの政府系NGOで働いているとのメールが、最近、届いた)。
女性たちのおしゃべりとチャイの香りが、昼間訪れたスリル・スッチャ村とはかけ離れたゆったりとした心地よい空間を作る。そんな中、隣席のお祖母さんの小さいがはっきりした声が聞こえた。「私たちも被災した。息子を亡くした。本来、笑ってなんかいられないはず。なのに、今、私は笑っている…」。自身への驚きと自責の念に駆らたような、それでいてなぜか明るさを帯びた呟きだった。
〔ツアー参加者〕
スルリ・スッチャ村を訪ねた日、それは長い、長い一日だった。朝8時に出発し、途中、ユーセフ君の仮住まいでチャイをご馳走になった。その後、12時過ぎに村に到着したが、活動後の15時過ぎまで全員が飲まず食わず。さらに、帰途、19時ごろに立ち寄ったレストランまで女性の場合はトイレなしでもあった。ツアーに参加してくださった方々は大変な経験を強要されることになったが、イヤな顔も見せず、不平ひとつ言わず、積極的に協力してくださった。このような方々のご参加がなぜかUJに光を射し込むようで、温かいご理解と無言の励ましが無性にうれしく、有難かった。
〔これから・・・〕
ここにこのような子どもたちがいる。ここにこの人たちがいる。これ以上の現実があるだろうか。「何もしないよりは、何かしたほうが絶対によい」と立ち上げられたウジャマー・ジャパン(UJ)。その主目的は、被災地の子どもたちに奨学金をおくる活動である。しかし、2人の協力員とその家族の行く末も気になる。この地の人々にUJとの出会いがどのような意味を持つことになるのだろう。試行錯誤を重ねながら、修正しつつ、よりよい方法を模索していくしかないだろう。できることに向かって、一歩一歩。そう、一歩一歩登ることはUJの得意分野のはず(会員の多くは山で繋がっています)。大きな大きな課題は、高い高い山に思える。




