12月25日
いよいよ山の村、スルリ・スッチャ村へ入る。昨日ようやく合流できたユーセフ君の出身村である。ユーセフ君のことはHP上でもたびたび報告してきたが、震災直後に知り合った当時大学院生だった避難民で、父と兄を地震で亡くし、現在では村にいる母や妹を呼び寄せるためにムザファラバードで単身、その資金作りのために働いている。ユーセフは今回は案内役と通訳を兼ねて同行してくれることになった。ジープで彼が今住んでいるところまで迎えに行く。ユーセフは、ブロックを積み上げただけの6畳ほどの小屋を月1000ルピーで借りてひとりで暮らしている。天井はないので、布を縫い合わせて覆っている。すぐ隣に住んでいる親戚に頼んでチャイをいれてくれた。彼の目下の夢は、早く資金をためて土地を借り、そこに家族4人が住める家を建てること。カラチの従兄弟が協力してくれてすでに土地の目算はついている。村では母親が彼が呼び寄せてくれるのを首を長くして待っているという。というのは、ユーセフの家は土砂崩れにあって土地もろとも流されて失ってしまったため、母親と妹は親戚の畑の一角を借りて粗末な借り小屋を建てて暮らしているだ。遠慮しながら暮らしている母親が不憫でならないと彼は言う。朝のうちに出発するも、ニーラム川沿いの道はスピードは出せないので、約50キロ離れたその村に着いたのはもう昼だった。村まであと少しのところがまだ通行できず、難所の向こう側で待ち構えていたジープに
(スルリ・スッチャ村)
乗り換え、荷台にみんな立ったままで村へ入った。ユーセフが10年間教わったという村の小学校の先生に協力してもらいながら、親を亡くした孤児とその保護者を集めてもらい、小雨が降るなかさっそく面接調査と奨学金の授与を行なう。奨学金の額はシェールたちと相談の結果、当初の5000ルピーではなく、2500ルピー(約5000円)を支給することに決めた。ちなみにパキスタンの物価がどのようなものかというと、ユーセフは現在、午前中は高校で教師の仕事をし、午後は商社で事務の仕事しているが、あわせて1ヶ月の収入が5,6000ルピー程度。基本的に公立小学校の学費は無料で、教科書やノート類は自分で払うというもの。村は都市部に比べてそんなにお金がかからないことから、年間2500ルピー程度の額が妥当だろうということになった。面接調査を進めていくと、いろいろな孤児のパターンがあるのがわかってくる。両親を失って、親戚の人が面倒を見ているケース。母親は健在だが、再婚するために子どもを親や兄弟に預けているケース。12歳だけど、小学校2年生の男の子。スルリ・スッチャ村は典型的なカシミール山岳地方の村で、急な斜面に段々畑があり、産業は農業と牧畜。男の多くは街へ出稼ぎに行っている。ドバイなどの外国に出ているケースも珍しくない。子どもたちはシャイで、直接話しかけたり問いかけても、からだを捩じらせて恥ずかしがり、答えないことが多い。学校のことや将来の夢などについての質問にはほとんど答えない。ユーセフはこの

村の出身なため、被災した家族の状況については彼が比較的よく把握している。ある程度、信頼もできる。しかし実際に奨学金の支給を始めると、それまで遠巻きに見ていた人たちまでが子どもをつれて押し寄せてきて、口々にこの子も親を亡くしたと主張する。子どもに話しかけると、先に代わりに大人が答える。誰と暮らしているのか、家族は何人かというようなことを個別にたずねると、答えが食い違っていたりもする。100パーセント信用はできない。お金を見ると、人の心は変わりやすい。お金をもらうために、生活するのがたいへんであると嘘をついたり大げさに言ったりしてアピールする人が出てきても不思議はないと思う。何度も何度もこちらが納得するまで問いかけ、正確な答えを引き出す必要がある。たくさんの方からのサポート会費や義援金を預かっているので、1円たりとも無駄な出費はしたくない。聞き取り調査の結果、奨学金の授与が必要なことが確実になった時点で、生活がたいへんなことがはっきりした時点で、はじめて奨学金を保護者に手渡す。別に「ありがとう」という言葉を期待しているわけではないのだが、彼らの多くが無言のまま受け取っていくのが、どうにもむなしい。自分がこういう形で一方的な支援を行うことに、おおいに疑問を感じる。このお金が子どもたちを学校に向かわせ、勉強を続けさせる助けになるのか、まるで手ごたえを感じることはできない。保護者の飲食費に使われてしまうかもしれない。家の再建の資金に組み込まれてしまうのかもしれない。奨学金を渡すにしても、何か他の方法があるのではないだろうか。奨学金を必要としているもっとたいへんな境遇の子どもたちがいるのではないだろうか。頭の中は疑問符がぐるぐるとまわり続ける。地震によって崩壊した家の多くはすでに瓦礫が片付

けられていた。その跡地には、再建のための土台がコンクリートでつくられている。しかしどの家も、同じような土台だけがつくられ、その後放置されているのが気になっていたのだが、シェールがこの疑問に答えてくれた。現在、政府から、立替のための資金が予定の半額供与されているのだが、残りの半額が支給されるためには、しっかりした土台をつくって家主がそれと一緒に写真に写り、それを役場に提出する必要があるらしい。カシミール人のこうしたその場限りの対応を見ていると、奨学金の使途がますますあやふやなものに思えてくる。15人ほどの孤児への奨学金授与が終わり、時計を見ると15時をとうにまわっている。帰り道も長いので、早くこの村を出る必要がある。ユーセフのお母さんが昼食を用意してくれていたので、手早くいただいたあと、宮崎さんが支援者から託されてきた手編みの帽子や手袋を子どもたちに配り、ジープが待つ場所まで徒歩で降りる。車に乗り込むと、どっと疲れが出て、ムザファラバードに着くまで寝入ってしまった。夕食後、ナイラさんがぜひ家に来てほしいという。カシミールにかぎらず、パキスタンでは、お客を家に招いてもてなすのは、彼らの文化である。義務といってもよいかもしれない。それほど、彼らはお客をもてなすことに重きを置く。特にわれわれが外国人だからなおさらである。シェールやユーセフは車で待っているという。外国人を案内しているからといって、パキスタン女性の家に行くことはいろいろと誤解を招いてしまうのだ。イスラムでは、男女の区別は厳格である。こういう場合、僕は外国人だから「治外法権」扱いとなる。まさに外国人特権である。ナイラさんの家は損壊が激しかったため、すでに取り壊し、隣接する祖母の家に母親や姉妹、兄弟ら、親戚らと暮らしている。応接間に案内されると、女たちが次々に現れた。今回のスタディ・ツアーのメンバーは僕以外は全員が女性。家の人たちは心から日本の賓客を歓待してくれた。本当にうれしそうである。女性は基本的に家の中にいる時間が長いから、またイスラムの習慣上、女性が外国人のお客を呼ぶことはあまり考えられない。われわれはまさに珍客といったところだろう。ナイラが写真アルバムを出してきて、家族や友人たちのことをいろいろと説明してくれた。僕は両国の女性たちの中で「紅一点」ならぬ「黒一点」状態。日本ならばありえないシチュエーションに、イアワセいっぱい状態であった。いつまでもここにいたい気分だったが、シェールたちを待たせてあるので名残を惜しみながら車に戻り、宿へ帰った。





