第3次支援活動

12月24日

第3次支援活動 写真05

 日本の若者がクリスマス・イブということで浮き立っているまさにその日、車でアザド・カシミールの首都ムザファラバードに入った。昼食後、私が地震の取材中に知り合ったナイラさんという女性と合流し、さっそく大学グラウンド裏の避難民キャンプを見に行く。ナイラさんは先週まで米国系のNGOに職を得ていたが、そのNGOが撤退したので今は職探し中だった。それで2日間、通訳としてわれわれのツアーに同行してくれることになったのだ。全壊したアザド・カシミール大学の旧キャンパスはトルコ系の企業によるODA協力で、すでに建物の再建は終わっていた。その前にある大学グラウンドは震災直後から避難民が流入し、テントがひしめき合っていた。が、今回たずねたときは、きれいさっぱりと無人になっていた。近々、大学が再開するため、避難民は立ち去るよう当局から指示があったという。実はナイラさんとは一昨年ここで初めて会った。彼女の住んでいた家はムザファラバード市内にあるのだが、倒壊し、一家でここに避難していたのである。昨年4月に再訪したときもまだここに暮らしていたのだが、現在は祖母の家に一家で移り住んでいた。たくさんあった避難民テント群は、大学グラウンド裏の空き地に移転していた。ここには約40のテント、推定300人ほどがいまだに避難民暮らしをしていた。大学グラウンドにいたときはみんな、さまざまな団体からもらったテントに思い思いに暮らしていたが、今ではBESTという名のパキスタンのNGOがUNHCR(国連高等難民弁務官事務所)から資金協力を得て、この避難民キャンプを運営していた。丈夫な生地のテントや生活用品も支給され、また食事に困ることもないためか、住民には落ち着きが見られ、子どもたちにも笑顔が戻ってきているように思えた。家を再建するための資金も順次、政府から支給され始めているので、この人たちがふだんの生活に戻る日はそう遠くないと思う。しかし次に訪れたキャンプは悲惨だった。

第3次支援活動 写真06 避難テント内での炊事

避難テント内での炊事
(被災後1年3ヶ月)
第3次支援活動 写真07 政府からの被災証明書。しかし給付金は まだ受け取っていないという。
政府からの被災証明書。しかし給付金は まだ受け取っていないという。

かつてニーラム川沿いにあった最大規模の避難民キャンプはすでに4月に閉鎖されたことは以前に報告したとおりだが、川岸の斜面にも現実にはいまだ張り付くようにして難民キャンプがある。町に近い川べりだけで30ほどのテントがある。これらのテント群は正直言ってみすぼらしい。木綿地の白いテントは垢と汚れで真っ黒。ほうぼうが破けている。地面に藁を敷いて寝ている家族もある。彼らの服も雑巾のように真っ黒。子どもたちの髪の毛は、もう何ヶ月も洗っていないかのようにボサボサ。裸足の子もいる。トイレはない。さきほどのBESTのキャンプとは雲泥の差だ。この人たちの多くは、ニーラム沿いの山奥にある村から出てきた人。家も土地も土砂崩れなどで失った人たちだ。どうしてNGOやUNが管理・保

護しているキャンプに行かないのかと聞くと、「すでに入っている人たちが見知らぬ土地からの自分たちが混ざることを嫌って、拒絶するのだ」との返事。開いた口がふさがらない。その話の真偽は知る由もないが、彼らがこうして危険で不衛生な場所で難民生活を強いられているのはまぎれもない事実。「あなたたち外国人なのだったら、NGOを連れてきてくれ」といわれた。僕たちもNGOなのだが……という言葉が出かけたが、現実に規模が小さすぎて避難民キャンプを運営することなどとうてい無理な話。思わず口をつぐむしかできない情けなさ。それにしてもこのキャンプは、街の中心部から歩いてもたいしてかからない位置にあるのに、パキスタン政府はいったい何をしているのだ、と怒りがわいてくる。地震が起きてすでに1年と3ヶ月。日本でもしこんなことが起きたら、たいへんな騒動になるだろう。実際、こうした避難民キャンプで目にする外部の人といえば、NGO関係者か国連関係者。パキスタンの政府筋の人、行政関係者には、ついぞ会ったことがない。震災直後は軍の人も多数動いていたが、今はほとんど見かけなくなった。それと同時にショックなことがある。被災者同士が助け合わないという事実。実はそのことについては、これまでの取材でも薄々感じていた。カシミールの人たちはどうして自分たちで被災者に手を差し伸べないのだろうか、と。村人が互いに罵り合っている現場も目撃したことがある。最初は単に、被災直後で、気持ちに余裕がないためだと思っていた。しかし1年以上たって、実際にこの難民キャンプの人たちの話を聞くと、それは違うんじゃないかと思い始めた。僕なりに考察した解釈は、こうだ。ご存知のようにカシ

ミールは印パ間の領土争いのため紛争が続いている。そして両国に2つに分断されてしまっている。朝鮮半島と似たような状態なのである。印パが互いに情報合戦を繰り広げていることは周知の事実。わかりやすくいえば、互いにスパイを送り込んでいる。地震が起きるまでは、実はこの地への外国人の入域は厳しく制限されていた。僕は「合法的に」一度入ったことがあるが、ジャーナリストビザの取得まで4ヶ月も待たされ、当地では護衛という名の監視が4名も24時間体制で僕に張り付き、まともに取材などできなかった。もう一度は「非合法に」入ろうとしたが、検問で拘束されて追い返された。カシミールは印パの独立後、60年近くこのような監視体制の下に置かれてきたのである。住民が他人を信用できなくなったのも無理はないと思う。カシミールという国(地域)の長い間の地勢的なポジションもそうした住民の心性の形成に輪をかけたのではないか。カシミールはずっと、大インドや中国といった大国のパワーバランスに翻弄されながら生き抜いてきた。カシミール商人といえば「悪どい商売をする」という意味の代名詞だ。他国に翻弄されるなかを、嘘をついたり、欺いたりしながら生きてきた民族である。それは今も続いている。他人を信用しない。信じられるのは家族とカネだけ。そういう民族性を育んできたのではないかと思う。もちろんこれは一般論であって、ひとりひとりの性格を表すものではないことは書き記しておきたいが、僕はパキスタンに住む他民族の人と比べると確かにそういう傾向は強いかなと思う。僕だけでなく、他のパキスタン人も似たようなことを指摘するから、ある程度は真実だろう。地震はそういった問題をも、鋭く容赦なくえぐりだしてしまったのかもしれない。ともかく、この悲惨なキャンプのようすには参加者5名ともかなりショックを受けられたのではないだろうか。

カシミールの伝統音楽家 モハマッド・スバハン氏
スタディツアー参加者との記念撮影

夕食後は、口直しというわけではないが、昨年の訪問時に知遇を得たカシミールを代表する音楽家モハマッド・スバハン氏の家をみなで訪ねた。日本からのNGOの人たちを連れてくるといったら、演奏してくれると約束してくれていたので。前回は僕ひとりのために演奏してくれ、大感激だった。スバハン氏は以前に招かれて日本に演奏旅行に行ったことがあり、大の日本贔屓なのである。すばらしい演奏の感激はぜひみんなで分かち合いたいと思っていた。奥さんの煎れてくれたおいしいサバス・チャイ(緑茶)をいただきながら、応接間でのミニ・コンサート。ラバブと呼ばれる弦楽器は日本の琴の系譜を引く楽器。スバハンさんのごつごつした指からは想像できない繊細で少し物悲しげな音色が身体中に染み渡ってゆく。特に望郷の歌にはジーンとくるものがあった。歌の意味はわからなくても、思いは音色で伝わってきた。実はスバハンさんはパキスタン生まれではない。分断されたカシミールの向こう側、インド・カシミールで生まれた。1965年に危険をおかして国境線(正確には停戦ライン)を越え、パキスタン側に亡命してきた。まだ二十歳そこそこだった。そのとき地雷を踏み、現在でも左足が少し不自由だ。一緒に逃げてきたのが今の奥さん。ムザファラバードで結婚した。こう聞くとロマンスの逃避行という感じだが、パキスタン側に逃げてきた理由については多くを語ろうとはしない。政治的なことを語るのは依然としてタブーなのである。ムザファラバードではラジオ番組にレギュラー出演することによって生計を立ててきた。が、生活は悠々自適というわけではない。芸術家というものはどの世界でも食べていくのが難しい。60歳を目前にして、スバハンさんはインド・カシミールへの望郷の思いを断ちがたく、パキスタン政府に訪問の申請をすでに行なった。地震の少し前から印パ間の関係融和が進み、地震を契機としてムザファラバードとスリナガルを結ぶバスの運行が始まったからである。向こう側にはまだ兄弟が健在だという。生きているうちに一目会いたいと思うのは当然だろう。ところがパキスタン政府からは許可が出ないという。その理由は「あなたがインド側に行ったら、国を捨てた裏切り者のあなたの命が危ない。撃たれてもおかしくない。だからパキスタン政府としては行かせるわけにはいかない」というものらしい。だが、これは政府の本音ではないだろう。そういうところにカシミール人を理解することやこの地方に関わっていくことの困難さが現れていると思う。カシミールの人から本音を聞きだすのは容易なことではない。地震の支援が滞っている原因のひとつは、まちがいなく政治や歴史にある。

山の村の小学校の庭にある墓
スルリ・スッチャ村の子どもたち
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