山岳地を歩いて知った事実
街にはいずれ復旧の手が入るだろうことは予測がつきましたが、このカシミールを中心とするエリアの多くは山岳地帯で、そういったところには道路が寸断されているなどの理由で支援物資が届いていないところもたくさんあることを聞きました。
これまでパキスタン北部を撮影などのためにくまなく歩いてきた経験から、山岳地帯の村々へは特にアクセス状況が悪いことを知っていたので、今回の地震によって被災したであろうそういう村の人はどのような状況になっているのか、出発前から危惧していました。日本でも新聞やテレビによって被災地の状況が映し出されていましたが、それは瓦礫と化したバラコットやムザファラバードの市街地の様子ばかりで、山岳地帯のようすをレポートしたものはありませんでした。
そこで実際にそういう村へ、道路から2〜3時間ばかり歩いていくつか訪ねてみることにしました。
そのひとつ、シェリ村はムザファラバードから東へ50キロ、標高約2000メートルにある村で、斜面に狭い耕地をつくって小麦などの農業で食べているところです。土砂崩れによってジープも通れない山道を何度か休憩を挟みながら歩くこと3時間。そこでは震災によって全壊した小学校の脇にテントが3張りだけありました。
このテントは実は援助物資ではなくて、カラチにいる村人の親戚によって届けられたものです。震災後にこの村を訪れた外部の者は、私たちが最初だということでした。
3張りのテントに12家族、55人が暮らしていました。男は入りきれないので、寝るときは野宿だそうです。食料は男が交代で町へ出て、調達しているとのことでした。子どもたちはろくに着替えもしてないらしく、近寄ると臭いました。すぐ近くには真新しい墓があって、彼らの家族が埋葬されていました。
山間部にある村は、程度の多少こそあれシェリ村と似たり寄ったりの状況で、村によってはその後の余震などを怖れて、ほぼ全員がムザファラバードやバラコットなどの街に避難していました。それらの街の郊外には、国際機関や世界各国からのNGOが避難民用のテント村を開設していたからです。そこに入れば、住む場所はとりあえずテントが支給され、食料も配布されていたからです。
ただ、なかには避難民用キャンプに入りたくない、あるいは入れない人も存在しました。ある女性はこういったのです。「ここを離れるわけにはいかないわ。だって夫も孫もまだ瓦礫の下なのよ!」

この言葉はいささかショックでした。避難民用キャンプに入るということは、一時的にせよ自分の生まれ育った土地を離れるということ。農民は特に土地に依存して生きています。そこを離れるということが何を意味するのか、自分にはわかっていなかったなと思いました。
日本なんかとは比べものにならないくらい家族を大切にし、家族中心に回っている社会で、家族や土地を捨てていくのがどういうことなのか。私たちは支援を行ううえで、そういうことも想像していかなくてはならないのだと強く思いました。現実にイスラム社会というのは、男と女の役割分担が非常にはっきりしています。男は外へ、女は内へ、という社会。そういう社会で、夫を亡くした女が、いきなり外へ出て暮らしていくのはとても難しいことなのです。



